教員コラム
第5回 慣れとマニュアル
専任教員に就任して数か月が経ち,私自身も徐々に慣れつつある。本年度は前期に刑事模擬裁判を担当した。受講していた学生は,皆,慣れない準備や法廷活動に四苦八苦していたようだ。
そんな学生達の姿を見て,約10年前,検事に任官した当時の自分の姿を思い出した。平成12年4月に検察官に任官し,東京地検に配属になり,ここで実務研修を受けた。実務研修といっても,一人の検察官として実際に捜査や公判活動を行う。4月下旬には早速法廷に立って公判活動を行っていた。司法修習時代にある程度の事件には接しているものの,自分が責任ある立場で訴訟活動を行うとなると,起案一つにしても,法廷での発言一つにしても,「自分のやっていることは本当にこれでよいのか。」と不安だらけであった。仕事のほとんどが自分にとっては初めての経験だったため,今から考えると簡単な事件でも,当時は記録検討・証拠整理(法廷に出す証拠の選別),冒頭陳述要旨・論告要旨の作成などの事前準備に,1件当たり2時間も3時間もかかっていた。慣れない仕事の連続で緊張の余り,疲れているのに熟睡できず,食事も喉を通らず,ヘトヘトだった。2か月半の研修期間が終わり,6月中旬からは京都地検公判部に配属され,一気に100件近い件数の公判事件を自分一人でこなさなければならなくなった。東京地検での研修のときは先輩検事が面倒を見てくれていたが,京都地検に配属後は多数の事件を自分1人で責任ある立場で職務をこなさなければならない。休暇などとっている暇はないし,あれこれ悩んでいる暇さえもない。とにかく仕事を進めることが求められた。
このような状況に置かれると,必然的に大変鍛えられる。検察官生活を2,3年続けているだけでも,事件の処理能力は格段に高まった。
その理由は,やはり「慣れ」にあると思う。それと,自分自身の中で無意識に作り上げられたマニュアル。
例えば,起訴される事件でかなりの割合を占める覚せい剤取締法違反事件(自己使用や単純所持など)は,経験の浅い検察官で何十件,何百件と事件処理をする。その中で,自分自身の中で「この事件では公判にこのような証拠を出せばよい。」「冒頭陳述要旨,論告要旨で書くべきことはこのようなことだ。」というマニュアルが出来上がっている。何度も事件処理を経験して慣れているから,当然仕事も速くなり,最初,2~3時間かかっていた公判準備が15分程度でできるようにもなる。
この「慣れ」や「マニュアル」は,やがて初めて扱う事件でも役に立つ。検事4年目のときに,破産法違反(詐欺破産)事件や,民事再生法違反(詐欺再生)事件の公判担当となったが,当初は構成要件の中身どころか,破産手続や民事再生手続さえもほとんど知らなかった。ある程度時間をかけて勉強しなければならなかったが,結局は刑法の2項詐欺と同じと考えればよいことに気付いた。そこで,詐欺事件の経験で得た「慣れ」と「マニュアル」を参考し,若干の特殊性に気を払いつつ,難なく公判を遂行できた。
| 今回刑事模擬裁判で実演した学生は,最初のうちは,おそらく任官したての私のような状況なのだろうと思う。ところが,模擬裁判も公判期日の回を重ねるごとに,すべての学生の訴訟活動が様になってきて大胆になってきた。証人尋問時の異議申し立ても積極的に出るようになった。これは慣れの証拠。異議を出すポイントもわかってきた。経験の成果である。また,経験したことで,学生自身も「相手方からこのような質問があったときには,異議を出せばよい。」という自分なりのマニュアルがわずかながらでもできたのではないかと思う。 |
さて,司法試験の話をしよう。
司法試験の論文試験は,答案用紙上に現れた文章のみが採点の対象になる。事後の口頭での釈明は許されない。このことから,受験生が得ている知識・理解をどのような表現を使って答案用紙上に表すかは,かなり重要な問題となる。限られた時間の中で,採点者に評価してもらえるような表現で答案用紙に書いておかなければならない。この要請に答えるためにはどうしておけばよいか。
重要なのは,「慣れ」と「マニュアル」だと思う。本試験で初めて論文を書くようでは,なかなかうまく表現することはできない。ある重要典型論点の論証を,試験勉強時に何度も何度も書いたり,書かないまでも頭の中に思い浮かべるなどして表現の練習をして慣れておけば,本試験ではいつものように(慣れたように)書けばよい。また,各科目ごとに検討順序のマニュアルを持っておくと,そのマニュアルにしたがって問題を分析しておけばよい。択一試験でも同じである。事前に問題のパターン,問われることが多い知識などを知り,多くの問題を解いて慣れておくと本試験ではいつものように解けば足切りにあうことはない。もちろん,当該問題には特殊事情があるのか否かの見極めや,あればそれに応じた修正も必要である。
マニュアルは,思考過程を硬直させるとの批判もありうるが,マニュアルを持つこと自体は悪いことではない。当該問題の特殊性のため,マニュアルは修正する必要があるかもしれない,ということを忘れなければ有用である。「慣れ」と「マニュアル」の2つのみですべてが解決するというものではないが,それでもやはり,受験勉強と実務のいずれにも通用するキーワードだと思う。
(吉沢 徹 准教授/弁護士)
第4回 法科大学院と統計
私がこの岡山大学法科大学院に着任し、情報処理スタッフとして働き始めて、この4月で3年目が始まります。業務の内容からおわかりいただけるかもしれませんが、これまで私は法律とは無縁の世界にいました。そのため他の先生方のように法科大学院で勉強する事柄に関係しそうな内容でコラムを書く事は不可能かなと思いましたので、雑文ではありますが、私の専門でやっている事柄に即した内容で文章を組み立ててみようと思います。
大学で私は「統計学」という分野を勉強しました。統計学というと、色々と複雑な数式を使ったり、パソコンを使って膨大な計算をする様なイメージを持つ人が多いかもしれません。私も院生時代には○○言語(○はパソコンのプログラム言語)でプログラムを作って、何台ものパソコンを同時に使い、何日間も計算させ続ける・・・という事をやっていました。こういう事を言ってしまうと、いよいよとっつきにくい学問と思われるかもしれませんが、私が思う統計学で重要な事とは、次の様なとても単純な事だと思っています。統計学にデータがつきものですが、果たしてそのデータをいかに表現するか。また、そのデータが本当に持っている情報であったり、そのデータが教えてくれている目には見えていない情報をいかに見つけ出すか、それが統計学のひとつの役割だと思います。
さて、せっかくの機会なので、今手元にある法科大学院に関連するデータを使い何かしてみようと思います。法務省のHPを見ると、過去4年間分の法科大学院別新司法試験の受講者と合格者のデータが置いてありました。統計では、データの出所と、その内容が信頼出来る事が大前提ですが、法務省から公に公開されているデータであれば扱って問題無いでしょう。このような事をすることに意味があるかどうかは別にして、あくまでも私の個人的な興味から、過去の新司法試験(平成18~21年度)について、法科大学院の所在地を都道府県別にまとめ、その合格率を算出してみました。私の調べた限りでは、法科大学院別の合格率はよく議論されていますが、法科大学院の都道府県別の合格率はあまり聞いたことがありません。
始めに法務省からダウンロードしてきたデータを整理します。例えば広島県だったら「広島大学法務研究科」と「広島修道大学法務研究科」の2校の受験者数合計と合格者数合計の割合になりますし、岡山県だと「岡山大学法務研究科」1校の受験者数と合格者数の割合を計算する事になります。この結果、法科大学院の都道府県別合格率の1位は千葉県(51.0%)、2位が北海道(41.0%)、3位東京都(38.4%)となりました。このような地理統計データを表現する手法の一つとしてコロプレスマップ(choropleth map)があります。これを用いることで、全都道府県別の合格率の結果を眺めることができます(図1)。図1は、赤色に近い都道府県ほど合格率が高く、緑色に近いほど合格率が低いことを示しています。ここで、白色で塗られている所は、法科大学院が無い都道府県を意味します。

図1. 平成18~21年度 法科大学院の都道府県別合格率の分布
コロプレスマップを眺めることで、北海道、千葉・東京を中心とした関東エリア、岡山・兵庫・京都などの近畿・中国エリア等が比較的合格率が高いことが見て取れます。
続いて、また個人的な興味から同じデータの整理を未修者のみに対して行ってみました。その結果を、図2に示します。

図2. 平成19~21年度 法科大学院の都道府県別 未修者合格率の分布
法科大学院の所在地の都道府県別未修者合格率の1位は千葉県(62.5%)、2位が岡山県(30.6%)、3位が北海道(27.3%)となりました。やはり千葉県を中心に関東エリアの合格率は高いようですが、未修者のみに注目した時その合格率は全体的に下がっているようです。近畿・中四国エリアで見ていると、岡山県は未修者のみに注目した時も30%以上の合格率を維持しているのがわかります。未修者合格率が上位の都道府県に含まれた事は、岡山に住む者として素直に嬉しいと感じます。地方の法科大学院は様々な面で苦境にたたされていますが、そんな中、岡山はそれなりの成果を出していると言えるのかもしれません。
統計学は、社会で生じている様々な問題の解決や、理解の促進に貢献する事ができる学問です。身近にある問題を、統計学という視点から捉える事で、何かしらの新しい発見をする事がよくあります。私の専門分野とは違う学問の場であるこの法科大学院で、何かしら統計学で役立てたらと思います。
(石岡 文生 助教)
第3回 スポーツと法
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先日、大相撲の理事会選挙と横綱の引退というニュースが、ほぼ時を同じくして世の中の関心を大いに集めました。新聞などで報道されているところによれば、理事会のメンバーは選挙で選ばれる仕組みになっているにもかかわらず、一門と呼ばれるグループごとに候補者を事前に調整するしきたりがあり、めったに選挙にはならないこと、過去に選挙が行われた際には、一門から選ばれた立会人が投票箱の目前に着席して投票を監視する方法が取られ、投票の秘密が守られていなかったこと、そして、今回の選挙では、開票後、ある一門が会合を開いて造反者の特定に躍起になり、その結果、自分の意思に従って投票したある親方が「責任をとって」相撲協会から退職するとの意向を示す騒動となったことなどが明らかになりました。 |
大相撲の理事会選挙には、当然、公職選挙法など国の法令の適用はありません。しかし、上記の実態は、一般国民の常識的な感覚に照らして驚くことばかりでした。ロースクール生にとっても、秘密投票は、選挙の重要な原則の1つであることを憲法で学んでいるので、相撲協会の旧時代的な体質に驚いたのではないでしょうか。
また、横綱の引退に関しても、横綱には当初引退の意向は全くなかったとされるのに、理事会に呼び出され、弁明の機会もままならず、不祥事の真相も明らかにならないうちに、理事会の休憩中、三人の親方に「引退か、さもなければ解雇」と「説得」され、急転直下、引退の表明が行われたと報道されました。横綱は、インタビューで、懲戒の対象となった不祥事について、「報道されていることと事実はずいぶん違う」と話していました。
このような重大な不利益処分を行う場合には、ルールに基づき、相手方や関係者の意見を十分に聞いて反論の機会をあたえなければ、誤った処分が行われかねないし、また相手方にとっては、たとえ客観的には正しい処分であったとしても、十分な納得が得られないことでしょう。さらに、事実関係が明らかにされないまま、正式な処分を発動する構えだけを見せて、形式的に本人の意思を尊重して!?自主退職で決着をつけるやり方は、処分の根拠となる事実が存在するならば、名誉や退職金の面で、相手方にとってある意味都合がよい解決方法かもしれません。しかし、仮に処分の根拠事実が存在しないのなら、相手方にとっては、より一層納得しがたい解決方法でしかありません。
スポーツ競技団体は、ルールを尊重することがスポーツマンシップの基本であるとしばしば述べて、所属する競技者にルールを守ることを求めます。しかし、ルールを守ることは、ルールの適用を受ける側だけでなく、ルールを適用する側にも求められるのです。すなわち、ルールには二面性があるのです。そして、ルールを適用する側が、ルールを守っているか、ルールをきちんと適用したかは、結局のところ、第三者の事後的な審査なしでは担保されません。
しかし、例えば、オリンピックなどの代表選手選考をめぐる争いや、出場停止などの懲戒処分を巡る争いなどの紛争は、スポーツ競技団体内部の紛争であることから、裁判所法3条の「法律上の争訟」の要件を満たすことが困難である場合が多く、公正中立の第三者機関である裁判での救済は受けにくいという問題があります。だからといって、競技団体側が一方的にルールを歪めたり、不適切なやり方でルールを適用したりすることはやはりあってはならないことだと考えられます。
この点、スポーツ競技団体と競技者との間に発生した紛争を解決する機関として、国際的には、スイスのローザンヌにあるスポーツ仲裁裁判所(CAS)が一定の役割を果たしています。有名なところでは、競泳選手の千葉選手がアテネオリンピックの代表に選ばれなかったことを提訴していますし、最近のケースでは、J1川崎の我那覇選手がJリーグから受けたドーピング規定違反を理由にした制裁処分の取り消しを申し立てた事案において、選手側の主張を全面的に認めて、処分を取り消す裁定を行っています。そして、我が国においても、1993年に設立された日本スポーツ仲裁機構(JSAA)がほぼ同様の機能を果たしています。スポーツ仲裁においては、競技団体が下した決定を競技者などが争うという形式をとることから、行政の決定を私人が争う行政争訟との構造的な類似性が指摘され、適正手続などの行政法の知見も活用されているところです。ただ、これらの紛争解決手法は、あくまで仲裁という形式をとっていることから、紛争の両当事者の合意があった場合にしか仲裁手続に入ることができないという制約があります。
さて、冒頭の事件に話を戻せば、これらのケースは、ルールを巡る団体内部の問題として、その適切な解決には法的なものの見方・考え方が必要であるといえます。そして、このような場面では、やはり弁護士の的確な助言や助力が必要です。弁護士が活躍する場は、何も法廷だけに限られません。
スポーツの世界は、現在も封建的な色彩が色濃く残り、日本社会の中でも、もっとも法化が遅れた領域のひとつであるとしばしば指摘されます。しかし、スポーツの世界に限らず、我々の身の回りの世界においても、ルールが適切に用いられていない例はたくさんあり、そのような領域において法曹の活躍する余地は、十分あると思われます。最近、法曹人口の供給過多が言われることもありますが、我々の社会の法化は今後も着実に進み、弁護士の役割や活動の場も将来的に増えていくと思われます。皆さんの中から、将来、スポーツに関する問題を積極的に取り扱う弁護士が誕生することを願っています。
(南川 和宣 准教授)
第2回 奇貨居くべし
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法科大学院を志望し、または在学する人たちの目標は、一部の例外を除いて、皆共通でしょう。目標達成には、与えられた資源(自己の能力、勉強のための時間、生活環境など)をいかに効率的に配分するかが、カギとなる。効率的に目標達成の力をえるには、やはり法律科目に重点的に自己のもつ資源を投入するのが、合理的であろう。 |
その昔、私が修士課程の頃、目標は博士課程進学、研究者であった。実定法学(私は商法。その他の基礎法学などでも同様だが)の研究者には、比較法的考察を、少なくともやろうと思えばできる能力が必要とされる。日本の商法を勉強したいのに、外国語が2か国語以上必要だ。英語はなんとかなるとして、もう1か国語の選択が必要となる。
そこでほとんど初学だったがドイツ語をやることにした。だが指導教授は、「ドイツ法はいまさらよう教えん、自分でやれ」との仰せである。いまになって思えば、これは当たり前で、自分でできるようになることが大事であって、大学院の教育は、与えられる課題をやればよいというものではない。法科大学院でもある程度このことはいえる。
そこで大学院生はこぞって、語学に堪能な先生が担当する西洋法制史の授業を受けていた。ここでは、ドイツ法制史学の大家が書いた書物(KOSCHAKER, “EUROPA UND DAS ROEMISCHE RECHT” 1966)を輪読していた。週1回の授業で、せいぜい3、4頁進むだけであるが、脚注も含めて精読する(ラテン語、中世ラテン語、中世ドイツ語、中世イタリア語などもでてきて、これらはちんぷんかんぷんであるが、先生は、「ああ、これは中世スペインの用語で、これこれという意味です」などと解説してくれて、受講生一同感嘆した)。修士課程1年次には、この授業準備でまる3日かかった。これを修士課程の2年間なんとかこなした(なんとかなるものである)。
内容は商法とは無関係であったが、この授業によって得たものは、ドイツ語の読解能力(私自身はこの能力はほとんど失われつつある)にとどまらず、もっと広くかつ奥深いものであった。自分の目標(博士課程進学、ドイツ商法文献の読解力獲得)からすれば、回り道であるが、やったかいがあったと今でも思っている。
先に、「惜しむらく」と書いたのは、法科大学院では、提供すべき授業がすべて提供されているということである。回り道で出会う奇貨を得る機会が乏しいといえる。だが、岡山大学法科大学院には、多様な選択科目が用意されている。そこには奇貨を得る機会は開かれているのである。
(追記 奇貨の用語法がまちがっているかもしれませんが、ご海容ください)
(鈴木 隆元 准教授)
第1回 私の使命
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法科大学院のホームページが新しくなるので、何かコラムを書くようにと法務研究科事務部大学院係から命ぜられた。 締切りは、9月30日だった。 ああなんということだ。大幅に過ぎてしまった。合わせる顔がないのである。ということで10月も半ばを過ぎたがパソコンのキーを叩くことにした。何でもいいということなので自由に書くことにした。 |
私が法科大学院の教員となったのは、岡山弁護士会法科大学院支援委員会副委員長をしていた時に当時岡山大学法科大学院の研究科長をしていた同窓の赤松先生から民事系の実務家教員が一人足りないので先生にお願いしたいと頼まれたからである。ということで快く実務家教員を引き受けたのであるが、法曹養成制度が変わり、法科大学院で新しい法曹が養成される。ここで私はいったい何ができるだろうかと考えた。
昔、司法試験受験生の頃に読んだ受験新報という雑誌の対談記事で渥美東洋先生の実務法律家は、法的な紛争に巻き込まれて不幸な状態にある人々に平穏な日々を回復してあげる幸せの配達人であると言っていた言葉が思い出された。
実務法曹はドブサライではなく幸せの配達人なのである。このような精神と暖かい心をもった実務法曹を一人でも多く世に送り出せたら私がここで教員をしている意味があったということである。
弱い人や困った人の立場にたって親身に相談にのって、紛争を法律を踏まえて、なおかつ法律を超えた解決する専門家を一人でも送り出せたら意味のあることであると思ったのだ。
ということで、私は岡山大学法科大学院でそのような生き生きとした法律実務家を育てるべく日々奮闘している。充実した毎日である。
私が単独で授業を行う演習では、まず先人の言葉を紹介し、各人が人としてどう生きるかを考えてもらうことから授業をはじめる。そして演習では、単に目先の教材の問題解決にとどまらず広く関連する事項を網羅的に潰して法律家としての基本的な素養と知識を獲得してもらうことにつとめている。砂の上ではなく岩の上に家を建てるべく指導しているのである。
また、新司法試験に一度落ちてしまった卒業生のフォローに大変な手間と時間をかけている。自分の痛みは実は他人の痛みである。人の切実な痛みがわかるチャンスを獲得した彼らには是非、翌年度の新司法試験に受かってほしいのだ。
さて、このようなわけでいくら時間があってもまったく足りない。そこで、弁護士としての仕事は顧問先関係の仕事と専門である企業法務・知財関係に限定して引き受けることにして時間をひねり出した。そのために、ここ数年間の弁護士業界を潤わせた過払いバブルの恩恵をまったく受けることがなかった。少し貧乏になったが別に生活に困らないのでそれはそれでかまわないのである。
クールな頭と明日をになう思いやりのある暖かい心をもった実務法律家を一人でも多く育てるのが今ここにいるこの私の現在の使命だからである。
(井藤 公量 教授/弁護士)




